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2023/03
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私とイギリス
イギリスを初めて訪れたのは1989年9月だった。私にとっても初めての海外旅行だった。
当時は、まだ私も独身。イギリスに着くと、中世にタイムトラベルしたような町並みがとても魅力的だった。
この時の渡英ではScotlandのGlasgowにいた学生時代のペンパルの家にお世話になった。
帰りの途中、ダラムの家に泊まった。

それから2年後の1991年10月に渡英した時は、妻の地元の教会で結婚式を挙げた。
披露宴では英語でスピーチをしなければならず緊張した。

1993年12月には、その年に生まれた長女を連れて渡英した。
12月のイギリスは骨まで凍みるような寒さで、これだけ寒い気候も初めて経験した。
「もう2度と冬のイギリスへは行かない!」と誓ったものだった。

1994年12月の渡英時には、NewcastleのSt. James Parkへ初めて行き、またChris Waddleを見るため、「ヒルズボロの悲劇」の舞台となったSheffieldへ行った。
ツートーンのアンブロのコートを手に入れたのは、この年か93年だったと思う。

1997年12月の渡英時には、この年に生まれた次女を連れて行った。
当時ロンドン大学の医学部大学院で研究をしていた友人とロンドンのピカデリーで逢い、彼のフラットに泊まらせてもらった。
ダラムの家では、日本からダラム大学大学院に留学していた知人らを交えてクリスマスパーティーをした。
この年の渡英では、英語が通じないことに悔しさを覚え、その後4年間、英語の勉強をしたものだった。
この年は、またChris Waddleを観るため、Player & Managerとして彼が移籍したBunrlyまでRogerとBenと一緒に車で行った。

2001年の夏には、結婚10周年で渡英した。
97年から英語の勉強をしていたが、この年受けてみたTOEICは、920点だった。
この頃からイギリスが遠い外国には感じられなくなって来ていた。

2003年8月には、イギリスがさらに近い存在になっていた。
子供もでき、その子供も大きくなり家族の生活も変わってきた。
時の流れと無常観を感じたものである。
日本の家を出てJRに乗り、空港から飛行機に乗りイギリスに着き、そして電車に乗り、地下鉄に乗り、バスに乗り、バス停から歩いてダラムの家に着く。
コレは自分にとって日常に感じられるようになっていた。

2006年8月には、上の子も中学生になり、夏休みは学校の友達と過ごしたいから、渡英するのはイヤだと言うようになった。
私もここ数年の激務のため慢性的に疲労感があり、日本では週末に休める日には一日中寝ている有様だった。
しかし、イギリスへ来ると朝から晩まで町を歩き回るほど元気で、疲れを感じなかったのが不思議だった。

2009年8月。
この年は、妻と子どもたちだけでイギリスへ行った。
私は、衆議院議員選挙があり、夏休みを取ることができなかった。

2010年8月。家族4人でイギリスへ行った。
私にとっては、起死回生の渡英であったが、セントレアへ行く途中、腹部に激痛が走り、体調不良で飛行機に乗るのはムリだと思ったくらいだった。
そんなアクシデントに見舞われた渡英であった。
私だけは、実質3日の強行軍での渡英である。
土曜日に日本を出て、同日夜にイギリスに着きヒースロー近くのホテルに泊まった。
翌日曜日は、家族でロンドンバスツアーをしてロンドンに一泊。
月曜日、家族は義理の母のいるダーリントンへ。

そして、私は一人ロンドンに残り、月曜日と火曜日の二日間でロンドンを歩いて回った。
ロンドンの地下鉄は初乗り4ポンド(600円)くらいもしてとても高い。
地下鉄の終日チケットを買うことも考えたが、天気も良かったのでロンドンを歩くことにした。
アビーロードへ行った。ビートルズのジャケット写真に使われたかの有名な横断歩道のところだ。
ビートルズの4人が歩いた横断歩道を、彼らを真似て歩く観光客が後を絶たない。
中学のときには、ビートルズのアルバム写真のこの場所へ自分が来れるとは思いもしなかった。
ハイドパークで昼寝。これは贅沢な休暇の過ごし方だと思った。
パディントンからインペリアルカレッジへ。
ロイヤル・アルバートホールを見たのは97年以来。
ソーホー、大英博物館、バッキンガム宮殿。セント・ジェームズパーク。英国財務省と外務省、それに隣接するCabinet War Room、チェルシーの街並みなどすべて歩いて回った。
英国財務省と外務省、それに隣接するCabinet War Roomは、私の初めての渡英時に、そして97年にも立ち寄ったところだ。
私のロンドンでの休日はこうして終わり、火曜日の夕方にはヒースロー近くのホテルに移動して宿泊。
翌日水曜、フィンランド経由で帰国の途に着いた。
今回は、ニューカッスルのスタジアムに埋めた自分の名前を刻んだブロックを見に行くことができなくて残念だった。

これだけ渡英歴がありながら、ロンドンで長い時間を過ごしたのは今回が初めてだった。
ロンドンも良かったが、やはり私はイギリスの田舎町が好きだ。
次回は、知らない田舎町へ行き、そこでできる限りの時間を何もせずに過ごしたい。

私は、イギリスが好きだ。あの街並み、緑に続く平地と牧歌的な風景。
人間もなぜかのんびりしているように感じられる。

さて、次回はいつイギリスへ行けるだろうか。
次回は、他の外国かもしれないが、きっと一人でもっともっとのんびりとするために行くだろう。
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Donal passed away
 青学会館でセミナーを受けていた今日、何年かぶりにプラハにいるHilaryから私にメールがありました。Hilaryは妻の友人です。

 メールは、二人の共通の友人であるRuthのご主人の訃報でした。私は、Ruthとは91年の結婚式で初めて会いました。その後、私がイングランドへ行ったときに、大きな赤ちゃんを連れて、妻の実家に遊びに来てくれたことがありました。

 結婚や出産など、通過儀礼には、うれしいものもありますが、年を重ねるにつれ、辛い儀礼に遭遇するようになります。Ruthのご主人は、メンタル疾患を患っていたそうです。とても心が痛みます。今日は東京にいるのが、非常に辛い一日でした。
「イングリッシュ・ウィスキー」100年ぶりの復活
English Whiskey イングランドでこの冬、3年間の熟成を終えた最初のシングルモルトの市場販売が16日から始まるらしい。イングランドでウィスキーが造られるのは、およそ100年ぶりらしい。

イギリスでウイスキーと言えば、スコットランド産です。私は、ウィスキーは好きではありませんが、飲むのであればスコッチよりもバーボンの方を好みます。この「イングリッシュ・ウィスキー」という会社のものだと、ノフォーク・クリームというリキュールに興味があります。私が大好きなアイルランドのクリーム「Baileys」と飲み比べてみたいものです。日本でも販売されるようですから楽しみです。

スコッチじゃない「イングリッシュ・ウイスキー」、100年ぶり復活
AFPBB News 2009/12/11 18:25 発信地:ラウダム/英国
 父のジェームズさんはモルトウイスキー原料のオオムギを作る農家だったが、4年前、収穫したオオムギすべてをスコットランドに「輸出」している事実を、ふと奇妙に感じた。そして、思い切って蒸留所創設に踏み切ったのだ。(略)

 計画立案から蒸留開始まで、わずか1年2か月。急ピッチの設立にはわけがあった。イングランド北部に別の蒸留所が設立を準備しているとのうわさがあったのだ。「2番煎じに価値はないからね。窓ガラスもドアもない状態で蒸留を始めたよ」(アンドリューさん)

 イングランドでの100年ぶりの蒸留は、創業者のちょっとした疑問から始まったようです。日常的なことの中に疑問を抱き、課題や問題を発見することは商売をする上でも重要なようです。また、100年ぶりにイングランドの土地で蒸留所を造るのであれば、これを誰よりも早く一番最初に実現しなければならない、という競争優位の考え方が表れています。昨年の事業仕分けの中で、仕分け人からある事業に対して「なぜ一番でなければいけないのか?」という質問がされてクローズアップされましたが、競争優位の考え方を知る人に、この説明は必要ないでしょう。
プロフィール

きんた

Author:きんた
Yahooブログ「ある地方公務員の隠れ家」(since 2007/2/24)から移転しました。

【自己紹介】
・1964年 静岡県浜松市生まれ

【趣旨】
まちづくりと公共政策について考えます。
本ブログは私的なものであり、私の所属する組織の見解を反映するものではありません。

【論文等】
政策空間 2007年10月
複線型人事は新たなモチベーション創出への挑戦
政策空間 2009年2月
資源ベース理論による自治体人事戦略の構築

【連絡先】
下のメールフォームからお願いします。

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