これでいいのか議会質問
2008-09-16(Tue)
友人にして私の先生でもある牧瀬稔氏が、ご自身のブログ「M研究員の日記」で、「これでいいのか議会質問」を書かれている。
論旨は、新たな施策や既存施策の拡充の提言をする際には、併せて次の3点も提案すべきである、というものです。
この中で私もその意思決定に至るまでのプロセスを制度化する必要があるのではないかと考えるのは①です。例としては、構想日本の事業仕分けがあります。
また、制度化はしなくとも、予算を伴うものについて、その財源をどこに求めるかについては、提言の欲しいところです。これが③で代えられるのであれば、それで構いません。
予算の提出は行政が行うのだから、財源確保は当局の責任であるという主張をされる方もいます。しかし、議会は予算を「増額してこれを議決することを妨げない」とされているのですから、予算の決定については、決算の認定の場合よりも議会の積極的な介入が予定されているのではないでしょうか。
単に必要とされる増額予算の財源に見合う額の捻出という以上に、牧瀬氏の主張されるように「必要のない施策や事業の廃止」を提言されても良いのではないかと思います。
実際、本市では、議員の方からも「ないよりあった方がよいに決まっている」・「何でもかんでも欲しいということは、もう通用しない時代」という趣旨のお言葉を頂いています。
牧瀬氏のブログでの主張は、読みやすい表現で分かりやすく書かれています。しかし、その主張には、キルケゴールが「あれか、これか」を著したような哲学的な背景があることが分かります。
論旨は、新たな施策や既存施策の拡充の提言をする際には、併せて次の3点も提案すべきである、というものです。
①必要のない施策や事業の廃止を求める。
②ゼロ予算事業を提案する。
③自治体がお金を稼ぐ手段を提案する。
②ゼロ予算事業を提案する。
③自治体がお金を稼ぐ手段を提案する。
この中で私もその意思決定に至るまでのプロセスを制度化する必要があるのではないかと考えるのは①です。例としては、構想日本の事業仕分けがあります。
また、制度化はしなくとも、予算を伴うものについて、その財源をどこに求めるかについては、提言の欲しいところです。これが③で代えられるのであれば、それで構いません。
予算の提出は行政が行うのだから、財源確保は当局の責任であるという主張をされる方もいます。しかし、議会は予算を「増額してこれを議決することを妨げない」とされているのですから、予算の決定については、決算の認定の場合よりも議会の積極的な介入が予定されているのではないでしょうか。
単に必要とされる増額予算の財源に見合う額の捻出という以上に、牧瀬氏の主張されるように「必要のない施策や事業の廃止」を提言されても良いのではないかと思います。
実際、本市では、議員の方からも「ないよりあった方がよいに決まっている」・「何でもかんでも欲しいということは、もう通用しない時代」という趣旨のお言葉を頂いています。
牧瀬氏のブログでの主張は、読みやすい表現で分かりやすく書かれています。しかし、その主張には、キルケゴールが「あれか、これか」を著したような哲学的な背景があることが分かります。
「逍遙の人 セーレン・キルケゴール」その6から引用
『あれかーこれか』は、「美的世界に住む人間」に「倫理的世界」を提示する目的で書かれた。
彼は、「美的世界」よりも「倫理的世界」の方が優れているとは言わない。「美的世界に住む人」の中に「倫理的世界」があることを気づかせようとするのである。そして、「倫理的世界」の価値を見い出し、「倫理的世界」に生きるように促すのである。
人はだれでも、感性と理性をもち、美的世界と倫理的世界をもって生きているが、その両方に住もうとすると、結局は、「美的世界」にのみ住むことになり、「倫理的世界」に住むという決断によって、初めて、人は倫理的かつ美的世界に住むことができる。それ故、「あれも-これも」というのではなく、「あれかーこれか」と言い、人々に決断を迫るのである。
人は理性だけの「倫理的世界」にのみ生きることはできないので、感性と理性の調和を図るためには「倫理的世界(理性的世界)」に生きるという決断が必要なのである。
(引用中の強調は、曽野田欣也による。)
彼は、「美的世界」よりも「倫理的世界」の方が優れているとは言わない。「美的世界に住む人」の中に「倫理的世界」があることを気づかせようとするのである。そして、「倫理的世界」の価値を見い出し、「倫理的世界」に生きるように促すのである。
人はだれでも、感性と理性をもち、美的世界と倫理的世界をもって生きているが、その両方に住もうとすると、結局は、「美的世界」にのみ住むことになり、「倫理的世界」に住むという決断によって、初めて、人は倫理的かつ美的世界に住むことができる。それ故、「あれも-これも」というのではなく、「あれかーこれか」と言い、人々に決断を迫るのである。
人は理性だけの「倫理的世界」にのみ生きることはできないので、感性と理性の調和を図るためには「倫理的世界(理性的世界)」に生きるという決断が必要なのである。
(引用中の強調は、曽野田欣也による。)
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